APHRODITE interview (from Knowledge Magazine)

Aphroditeとは何だ?その名前は、アシッドハウスの初期から姿を変えつつ、いろんなところに出現してきた。
それは、クラブの名前として、DJの名前として、プロデューサーの名前として、レコードレーベルの名前として。。。
多くの人々は、その名前をGavin Kingの曲作りやリミックスの上での別人格として認識している。
例えば、"Some Justice"、"Calling The People"、"We Enter"、"Fire"といった、どんなフロアをも打ちのめすジャンプアップのアンセムの作者としての名前だ。
先日、僕は彼の住むBromleyのフラットで、彼を捉まえて、話を聞くチャンスを得た。。。

「俺の母親は、ピアノの先生だったんだ、だから俺は4歳から18歳になるまでずっとヴァイオリンを習ってたんだよ。10代の始めの頃は、ジャズやファンクやエレクトロにハマって、その後はレッド・ツェッペリンやジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイドなんかにしばらくハマってて、そんで最後にアシッド・ハウスが来たってワケ、それ以来ずっとそのままきてるって感じかな」

「でその時、俺はWarwickで大学に通ってて、レコードを結構持ってたんだよね。だから俺はレイヴをはじめたってわけ。そのパーティを俺達は愛の女神にちなんでアフロダイテと名付けたんだ、それは1988年でちょうどあのラブ&ハーモニーの年だったね。でしばらくして俺のパートナーが旅に出ちゃったんで、その名前がそのまま俺に付いちゃったんだ。Werwickでパーティがうまくいったんで、俺はWerwickを出て、ロンドンに帰ってきて、幾つかイヴェントをやったんだ。客の入りは半分くらいはいけたんだけど、俺はすし詰め満員ってのに慣れてたから、ほんとにマジで落ち込んじゃってね。お金は入ってこないし、クラウドを喜ばせるためにはすんごい一生懸命働かなきゃならなかったんだ。で、結局2ヶ月でパーティを止めちゃったんだ。俺はそれ以来パーティを一度も自分でやっていないよ。そのころ俺はマジですっからかんになってたもんだから、レコードを買う金がなくって、しょうがないからアミーガで自前の曲を作ってたんだ。 そうこうしてるうちに俺は"Some Justice"をものにして、でミッキー・フィンと出会うことになるんだよ。俺は彼が誰なのか知らなかったんだけど、俺が曲のデモをレコ屋でかけてたらそれを彼が聴いてたんだよ。 その時点で曲は結構いけてたんだけど、ヴァーカルもブレイクビーツも入ってなかったんだ。で、ミッキーが来て、俺達はそこを変えた。そんとき俺達はお互いにいろいろ得たもんがあったんだ。」

彼等がタッグを組むと、そう、Urban Shakedownだ。で驚くべきことにジャングルの原形とも言えるこの曲は、
1993年のナショナルチャートのトップ40にランクインしたのだ。 将来有望となったわけだが、物事の移り変わりは早いのだ。
「俺達はそのヒットで全てを手にしたってワケ、レコード会社からの印税やいろんな契約、マジで俺は天狗になったんだよね。 でも人って言うのは自分のしたことに慢心したら最後、自分を見失ってしまうものなんだ。
だって一枚のレコードで信じられないくらいの金が入ってきたら、もう一回同じことが出来ると思っちゃうもんだよ。でそれを1週間に一回やれば、1年もすれば億万長者になれるじゃんって感じだよね。でも、そうそううまくは行かない。金のために音楽を作ったら、良い曲は出来ないんだ。良い曲を作ったら、必ず金は向こうからやってくる。そのことに気づいてようやく、俺は自分を取り戻せたんだ。」

Aphroditeレーベルについて、もう少し教えてくれない?
「3年前、俺がそろそろかなって時に、自分の曲をリリースするために立ち上げたんだ。
俺に関するあらゆることがAphrodite Recodingsで分かるってこと、俺のレコードのスタジオ直送って感じさ。
とりあえずいまは他人のレーベルからレコードを出す必要を感じないんだ。(他でやるとしたら)リミックスだけだね。」

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